【2018春版】TVドラマをできるだけたくさん見て感想を書くブログ

脚本家目線で2018年春のTVドラマをできるだけたくさん見て感想をまとめます!

ラブリラン③(2018/4/18放送):”新感覚”の正体は「古代エジプトドラマ」

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 15年間の幼馴染・鷺沢への片想いをこじらせた結果、30歳にして男性経験のない南さやか。「私なんてどうせ・・・」と、恋愛というリングにあがることを拒否し続けてきた。そんなある日、さやかが目を覚ますと目の前には、見知らぬ男が。「どういう事?いったい誰なの?何が起きたの?」パニックのさやかに対して、その男は町田と名乗り、2人は付き合っていて、同棲をしていると言う。どうやら3ヶ月間の記憶をなくしているらしい。しかも、町田との間では”経験済み”・・・つまり、記憶喪失の間に処女を奪われてしまっていたのだ。記憶をなくした3ヶ月の間に、いったい何が起きたのか!?(中略)思いっきり笑って、どうしようもなく泣けて、いちいちキュンとする!!記憶喪失から始まる新感覚ラブコメディにご期待ください!(公式サイトより)

 

「思いっきり笑って、どうしようもなく泣けて、いちいちキュンとする!!」・・・こんな煽り文句のドラマを見た僕が悪かった。でもこれを見つけたのはブログを書くためにドラマ鑑賞後に公式サイトを確認した際なので、時すでに遅しであってだな・・・!

1回目と2回目の放送を見逃しまして、3回目の放送を録画で見ましたので感想を書きます。
で、このドラマについて書くのは今回が最初で最後。理由は簡単、つまんなかったから。いや、つまらないを超越して何か呪いをかけられたような、開始20分あたりから頭がぼーっとしてきて、変なクスリでも打たれたかのような、よく”脳味噌に膜が張ったような”ってな言い方をしますけども。

 

 

第3回の総評・・・★☆☆☆☆☆

 

1. このドラマのことはクソミソに言うけど中村アンさんは大好きです


中村アンさんは(同い年だからか)以前から女性芸能人で一番好き(なぜならタイプだから。同い年関係なかった)です。こちらの写真をご覧ください↓

 

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 第1位。

確かに美貌は1位なんですが、数年前からドラマにかなり頻繁に出演されています。ある時彼女の出演シーンを初めて見た時、「是非バラエティとモデルだけにしてほしい」と願わざるを得ませんでした。タチが悪いのが、おそらく中村アンさんは「ご自身の演技が下手であること」をかなり自覚しながら演技をしている。下手クソなりの一生懸命さ、というのが滲み出ているんです。それが見ていて本当に痛々しい。好きなだけに見ていてツラい。好きなだけに。同い年だし。

 

僕の中村アンさんへの気持ち(キモッ)を前提として、このドラマ「ラブリラン」についてはメチャクソに言います。つまんなかった。ああ本当につまんなかった!ああスッキリした。

好みは人それぞれなので、自分が嫌いな作品について面白いと言う人を批判するのは気が引けますが、「キュンキュンする!」って某サイトでコメントしてたそこの君!いい加減にしたまえ!是非デートしよう!

 

2. 記号的表現による統一感:隅から隅まで

”記号的表現”というのは聞き慣れない人もいるかもしれない。難しく言うと「ある状況や人物に関する、作者と視聴者の間で共通する前提(=イメージ)に基づいた表現」ということになるのでしょうか。ちょっと違いますが「ステレオタイプ」とも似ている意味合いですね。
分かりやすい例でいうとヤクザ。ヤクザを記号的に表現すると、【金のネックレス・グラサン・パンチパーマ・派手な服装】という「ドラマとか漫画でよく見るアレ」になります。パンチパーマはさすがにもう無いか。まあでも伝わるでしょ。

 

記号的表現は使い方次第では有効に働きます。例えば主人公が酔っ払いに絡まれるシーンがあった時、その酔っ払いは記号的に表現されることで「人物ではなくシチュエーションの一部と化す」ので、観客の注意を主人公の心情や行動にフォーカスさせることができます。ここがミソで、記号的に表現されたキャラクターは「人物ではなくシチュエーションの一部」になる。ここ超大事。

更に言うと、キャラクターだけでなくシチュエーションそのものや台詞も記号化が可能です。「作者と視聴者の間で共通するイメージ」があればいいので、例えば↓

 

「告白」のシーンを記号化・・・女の子がハート型のシールで封をしたラブレターを「好きです!」と両手で思い切って差し出す。相手の男の子は「め、めぐみ・・・」や「ど、どうしたんだよ急に・・・」や「お、おいおい」というように必ず一文字目を重ねて発言。

 

「寝坊」のシーンの記号化・・・パンをくわえて家を飛び出して(以下省略)

 

では「ラブリラン」はどうだったか。これはもう衝撃としか言いようが無いんですが、このドラマに出てくる全シーン、全キャラクター、全セリフ、全てが記号だけで構成されているといっても過言ではないんじゃないでしょうか!!!

まさにヒエログリフ

 

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中村アンさんが告白するシーンも、ずっと好きだった人とデートに臨むがなぜかラーメン屋に連れてこられてガッカリしたけど「ここは昔二人で行った思い出のラーメン屋と同じ味のラーメンだよ」的なことを言われてやっぱりテンション上がるシーンも、営業先にプレゼンしようとしたけどガチガチで資料を全部床に落としてしまうシーンも(第一、PCでプレゼンするのにあんな紙資料を持っていく馬鹿がどこにいる)、その後やっぱり勇気が湧いてきてやたら個人的なストーリーを交えたプレゼンを始めてクライアントから「君は一体何が言いたいんだ」的なこれまた型通りのヤジを飛ばされるシーンも、

ぜーんぶ!!!ぜーんぶ記号!!!

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これで何が起きるかといいますと、ずーっと呪文を唱えられているような感覚に陥るんですね。冒頭で言っていた「頭がぼーっとしてきて、変なクスリでも打たれたかのような」感覚というのは、まさにこれが原因です。「俺はいったい・・・何を見ているんだ・・・!?」・・・ぽやぁ・・・な、中村アン・・・か、かわいい・・・バタン


3. 歴史的な無機物的ナレーション:放送部の歩美ちゃん(仮名)を思い出す


あまり演技を評価する時に「棒読み」という言葉は使いたくないのですが、稀に「棒」としか言いようが無いセリフ回しをする方がいらっしゃいます。「コンフィデンスマンJP」評でも書きましたが東出昌大さんなんかはその代表例ですね(すいません)。


で、中村アンさんなんですが、棒とは少し違う。しかも、以前見たドラマに比べれば演技自体は断然良くなっているように見えました。ただ、あくまで普通のシーンは、です。

心の声のナレーションが多用されているドラマなのですが、とにかくそのナレーションがですね、棒というより無機物に近いです。トゥーーーーーーーって感じ。多くの人が文字を読む時に頭の中で声に出して読んでると思いますが、その「頭の中の読み方」に近い。心の声なんだから「頭の中の読み方」になってんだったらピッタリじゃん!と言う人がいるかもしれませんが、そりゃ屁理屈ってもんや。

 

冒頭にも書きましたが、中村アンさんの一生懸命さはすごく伝わります。ナレーションの録音現場、スタジオでマイクを前にして、ぎっしりとメモが書き込まれた台本を両手で持ち、主人公の心情を想像しながら、気持ちを込めてセリフを読む中村アンさん、その姿が目に浮かびます。

でも録音を聞いてみると、無機物。炭素が無い。なぜだ。あんなに頑張ってたのに!
これはもうしょうがないと思います。僕も演技の才能がこれっぽっちも無い人間なので、痛いほど共感します(勝手に)。頑張ってんのにできないんですよね。

 

小学生の時、学校での給食時間や昼休みの終わり、下校時間を知らせる放送。その放送を担当する放送部員の中に歩美ちゃん(仮名)という子がいました。歩美ちゃんはナレーションが上手と評判でした。

「もうすぐ、昼休みが、終わります。授業に遅れないよう、早めに、教室へ戻りましょう。ピンポンパンポーン」

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不幸だったのは、小学校の放送だけで通用するあの独特なイントネーションを中学時代にも継続したことでした。国語の時間の音読でそのイントネーションを発揮した時は、ごめんなさい、どうしても笑ってしまいました。だって放送と音読は違いますからね

「ラブリラン」でのナレーションは、そんな歩美ちゃんを思い起こさせるものがありました。


4. 「失くした記憶」の扱い方は新しい(と好意的に解釈)


第1回と第2回を見逃したのでフェアな意見は難しいのですが、記憶喪失の物語では主人公の第一目標は「記憶を取り戻すこと」と「もう一つ何か達成すること」が同時進行するのが通例です。傑作「ハングオーバー!」で言えば、「記憶を取り戻すこと」と同時に「無事に結婚式を実行する」という2つのミッションになりますね。

この同時進行というのがポイントで、「記憶を取り戻すこと」だけが主人公の目標だと、「なぜそんなにまでして取り戻したいのか」という動機付けが出来ない。「別にそのままでも何とか暮らしていけるやん」と観客に思わせてはいけないワケです。

 

考えてみれば主に長編の物語では複数の課題解決の過程が同時進行するのが一般的です。「タイタニック」なら2人の恋物語タイタニック号の沈没。「最後の恋の始め方(原題:Hitch)」ならウィル・スミスの恋物語と、彼のクライアントの恋物語、2つの恋物語が同時進行します。

さて、「ラブリラン」。これも主人公の記憶喪失の物語と併せて「どっちの男(以前から好きだった男と、記憶を失ったからなぜだか分からんけども気付いたら同棲を始めていた男)と結ばれる?」という恋物語、2つのストーリーが同時進行します。ただし「ラブリラン」で特徴的なのは、記憶を取り戻そうとする気概が弱っちい!なぜかと言えば簡単で、割と簡単に「あ、そうだここは確か!」と自然と記憶が蘇ってくるからなんです。

これがダメだとは言わないのですが、やっぱり「ハングオーバー!」にしろ「ボーン・アイデンティティ」にしろ「メメント」にしろ、記憶喪失が絡む物語では「記憶」が最も重要なものとして扱われる(そらそーだ)のが常套手段であるのに対し、「ラブリラン」ではむしろ「まあ記憶は失くなったけどさ、じたばたしても何も思い出さないし、大事なのは今とこれからっしょ!」という超ポジティブ発想、とにかく失った記憶に対するハングリーさが全然無い。とにかく恋。恋と記憶どっちが大事かって、そりゃ・・・記憶に決まってんだろ!もっと必死になれよ!んなもん信じられるか!!

 

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中村アンさん、これからも頑張ってください!応援してます!小物力みがいていきましょう!(しがない脚本家より)